昭和四十八年十一月四日 朝の御理解
X御神訓 道教えの大綱 「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中            に生かされてあり。」
 わが身が神徳の中に生かされてあるという事がわかるようになったら、もう自分の周囲、周辺の全てが御神徳の現れですから、それを御神徳の中に浸らして頂いておる事がわかるのですから、自ずと和らいだ心も、喜びの心もいわゆる神恩報謝の心が、いつも頂けておるという事になる。
 理屈の上で神様の御恩恵の中に生かされて生きておるんだという事がわかっただけでは、一向に有難いというものは出てまいりません。わが身は神徳の中に生かされてある。これは自分の周囲とか周辺とか、物の形の上でなくて、目に見えない神様の御働きを受けておるという事。神徳の現れであると、神徳の中に在るという事になる。 それで私は、疑いを離れてという事は、まず我情を放れて、我欲を放れて、又は改まらせて頂いて、いうならば、改まるところを離れて、はずして改まるところを、改まり研くところを研かせて頂いて、疑いを離れてという事は、そういうふうに頂きませんと、わが身は神徳の中に生かされてあるという事が、実感として湧いてこないと思うです。
 そこで私共は、絶えずまあ信心の稽古をさせて頂くという事は、今第一に私が改まらなければならない方達の上に、又は改まらなければならない心の上の事、これをいつも思うて行かなければいけない。そしてそれに取り組んで行かなければ、そしてそれが又、限りない事ですから、一つの事が改まられたかどうかというて、もうそれで良いという事ではない。
 今自分が一番改めねばならないこと、今一番自分が形の上に於いて、又心の上に於いてです、ここを改まらなければという、そういう信心の稽古というか、をして行かないかぎりです、神徳の中に生かされてあるという事は、本当にわからないと思う。 いうならば、私共がそういう信心をさせて頂いて、いよいよわが身にも神徳を受けなければです、本当の神徳の中に生かされてあるという事はわからないと思う。
 成程、私共の周辺の事、例えば皆さんが朝参りをして見えられます。もう大分寒くなった。真っ暗いまだ星を頂いてという事でしょうか。
 今、私毎朝御祈念をさして頂きます。北斗七星がもう煌きにく煌いておる感じですね。やっぱり秋空が澄みきっているからてしょうね。
 私が丁度拝まして頂くところに、丁度北斗七星が見られます。又一つはそういう、神象というか霊気に触れさせて頂いてです、もう心の底から有難いものが湧いて来ます。なら、皆さんも同じ、大して時間も変わりませんから、そういう神秘的なというか御神徳の中にいわば、わけてお参りをして来とられるようなものですから、そこに皆さんの心の中にどれ程、神徳の中に生かされてあるという喜びを感じながらお参りして来ておるかという事。そして、そういう喜びを、一日中持ち続けるという事なんですけれども、なら、そういう持ち続けけねばおられぬ程しに、自分の周辺には神徳の現れが、いっぱいあるという事。
 水道の栓をひねれば水がジャ-と出る。マッチをすればパッと火が出る。もう一切が神徳の現れですから、だがそれを聞いたりわかったりしただけで、なら有難いとうものが現れるわけではない。
 やはり神気というか、神の心ですね、神気を感ずるものは、やはり私の心の中の神気、神の心をキャッチする以外にはない。それを、なら神徳と感ずる時です、その心の状態は必ず、和らいだ喜びの、いわゆる神恩報謝の、神様の御恩に奉謝の心、喜びの心、感謝の心というものがいっぱい。その心が和賀心。その心がおかげを頂いて行く心。
 疑いを離れて広き大道を開き見よ。疑いを離れなければ如何に広い真の大道がそこにあっても、それを自分の心でそれを感じ取る事は出来ません。
 それを感じとらせて頂く時に有難い心が生まれてくるのです。だから疑いを離れてというところを、今日はいわゆる、自分の改まらなければならないところを放して、それを離れてというところを聞いて頂いたんです。
 又その事を以て、研かしてもらう。又その問題を以て、本気で研かしてもらい又そういう心の中に形の上に、自分は今、今改まらなければならないところを、まず、一つ極めなければいけません。それは改まらなければおられんところは、あまりにも多いですけれども、今差し当たって一番改めねばならないところ。
 これはね、お話しを頂きながら、又自分で、心でやっぱり練り出すより他にないです。自分が今難儀をしておる。難儀の元をず-っと辿ってごらんなさい。必ず改めねばならんところに行き当たります。
 ですから、紅のところを改めねばならん人もあろう。白のところを、青のところをそれはいろいろ、まちまちですですから今一番私が改まらねばいけないところ、今それを心の上にも、形の上にもです、ははあ自分はこれがあるから、こんないらぬ難儀をしなければならないところを取り組ませて頂く。それを放して、それを離れてそこから私は疑うにも疑う事の出来ない、疑いが自ずと離れてくると思うんです。
 疑いを離れて、でないと広き真の大道におらせて頂いても、それが真の大道がわかりません。わが身が神徳の中に生かされてあっても、生かされてあるという事が自分の心で、実感として受けとる事が出来ません。
 私が毎朝ここで、只今、北斗七星が目当てのようです。天を仰ぐ時にはその時に本当に霊気というか神気というものを、五体いっぱいに、心の上にも感じます。
 もうそれは表現の仕様がありません。それは私の研ぎ澄まされたというとおかしいですけれども、私の一番一日の中で最高のいわゆる心の状態、それは心の上でのコンデションの素晴らしい時に拝ましてもらう。
 その時には何にもない。欲もなからなけれは得もない。欲得もない。只天地と繋がる。成程、神徳の中にあっても、こちら自身が神徳を受けなければ本当の有難いものは生まれないという事をここ数日実感しております。
 ですから神徳を自分の心の中に頂かして頂く為に、疑いを離れてであります。
 そこを疑いを離れるという事を、自分が今、改まらなければならないところ、今、自分が心の上に又形の上に、それを感じ取らせて頂いて、それに取り組む。取り組んで行く事が信心の稽古だ。そういう姿勢をもって御教えを頂かなければ、その御教えは血にも肉にもならない。
 只、こちらの耳から入ってこちらの耳から抜けてしまうような結果しか生まれてこない。今日は特にこの疑いを離れてというところを一つ改まらなければならないところをです、まずはそこを、自分の心の上でも又形の上でもキャッチして行かなければいけません。
 そしてそれを改まらして頂く事を本気でさして頂くところにです、信心のいよいよ有難さというものは、それが有難いです。
 勿論、その有難いという事は、神様の御喜びがこちらに返ってくる事だと思いますけどね。そして自分の心から、一つ一つ放されなければならないものが放れて行く。 いうならば、我情が放れて行く。我欲が放れて行く。昨日の御理解でいうと人情が放れて行く。そして残るものが神情、その神情を以て見なければ神徳の中に生かされてあるという喜びは、感じる事は出来ないという事を今日は聞いて頂きましたですね                                   どうぞ